あなたは誰?わたしは誰?

  •   07, 2022 12:54
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自分にカポエイラの基礎を手ほどきしてくれたのは日本人の先生。
日本にアバダという流派を持ってきてくれた人だ。
(因みにアバダ・カポエイラはカポエイラ・ヘジオナウではない。この話は長くなるのでまた後日。)

その人がある時急に何の相談も無しに流派を脱退してしまった。
今になればその気持ちが何となくわかる。孤独だったんだと思う。

そして俺はというと単身ブラジルに来て、今の師匠に弟子入りした。
それが14年くらい前。

「あぁ、あの色気があって尚且つ緊張感のあるカポエイラが学べる。」と期待に胸打っていた。

しかし、最初の数年間はとにかくミット打ち、テイクダウン、倒れた相手の顔に肘打ち、、、。

連打、ミット打ち、テイクダウン、肘打ち、頭突き、ミット打ち、サンドバッグ、首相撲、後ろを取る、後ろを取られたら後ろに肘打ち、ミット打ち、タックルを切って膝打ち、逃げる相手の袖をつかんで引き寄せながら頭突き、そしてミット打ち、、、、


「ジョーゴが上手くなりたいんだよぉ!このえぐい技をいつ誰に使ったらいいんだよぉう!」


時々こころの中で愚痴りながらも、苦手ではない内容なので師匠の前では黙々と続けた。

練習は物凄くきつい。アハスタォンは一度失敗すると体力ゲージが激減する。
まして相手は80㎏超えのブラジル人達。
途中でトイレ行って軽く吐いてから、また練習は続く。
そういう世界は初めてじゃなかったし、どっちかというと好きだった。
当時の道場のトイレのあの茶色いタイルの床をいまだに忘れない。


ただ、その技を使う時ってブラジルでもそうたくさんは無いし、日本では皆無。
持ち腐れて10年以上たつ。

「俺さぁ、カポエイラが上手くなりたいんだよね。ドッグファイトする機会なんて無いしさ。」
弟子入りしたての当時、そんな愚痴を兄弟子のDel(デウ)に漏らしたことがある。

デウは真顔で
「でも生徒たちの将来の事を思って教えてるんだよ。」

笑うでもなく、叱るでもなく、呼吸をするのと同じくらい自然に言った。

彼の口からそう聞いたその時、いろいろ理解した気がする。

デウは師匠と同い年くらいだ。俺なんかよりもずっと師匠を見てきている。
昔のリオ郊外の日常がいかに荒々しく過酷だったか、よってその郊外のカポエイラもいかに荒々しかったか、
師匠と共に目撃してきた人間だ。

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「ジョーゴが上手くなりたいんだよね」と軽々しく言っていた俺の軽率さ。
あの激しい練習だってジョーゴなのに、当時たかだか6年くらいのカポエイラ歴で「ジョーゴとはこうである」と
分かったつもりになっていた証拠だ。

全ては生徒たちの未来のために教えていた事だったんだ。

生徒に見えているものと、先生に見えているものは明らかに違う。
経験からくる視野の広さが違う。
流した汗と涙の量が違う。

先生になって改めて確信したことがある。

「師(先生)を疑うな」という事である。

先生に染めてもらう意識も覚悟も無い生徒は、自分と先生の時間と労力を無駄にしてしまう。
教わっている事を信じもしなければ、質問もせず、とことん受け身で関わり、文句だけを言う。
こういう人はどこにでもいるのだけど、どこに行っても同じことをする。

自身の問題を先生というある種の「甘え」の対象に投影して渡り歩く。

そんな人をブラジルで何人か見てきた。
接客業をしてきても見てきた。

人から物を習う時、定期的に身分証明をする必要がある。
自他に対しての証明。

「道場において私は誰だっけ?」

お客様でもなければ、有力株主でもない。
道場においてはみな一生徒。
靴を脱ぎ、私服を脱ぎ、腕時計もピアスも外して道着を切れば、皆同じ白。同じ裸足。

そして指導者もふんぞり返っていずに、
信頼して習い続けてくれている生徒に感謝を。
道場のルールを守ってくれいている生徒に感謝を。
ルールを守らない人間が自分勝手を通そうとしたとき、
生徒一人一人が放つ空気ほど、場を引き締めるものはない。
いわばその道場を守る存在だ。

そこにあるのは信頼と学ぶ意欲のみ。


あなたは誰?
わたしは誰?
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Tag:カポエイラ

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